辞書編纂を描いたアニメ『舟を編む』の第4話が放送されました。いつも通り、辞書オタクがこのアニメのどこを見ているのか、つらつら書きましょう。
※以下、アニメ本編の画像はAmazonプライム・ビデオ『舟を編む』第4話「漸進」*1をキャプチャしたものです。
『大渡海』の右
原稿執筆の見本として大写しになったのが「右」の原稿でした。
まず「アク」欄があることに目がいきます。『大渡海』は見出し語にアクセントの情報を備えることを計画しているというわけですね。「平」は「平板」で、簡単に言えば、「右」は、「右が」のように助詞がついたとしても音の高さが下がるところがないということを表しています。
中型辞書の三英傑『広辞苑』『大辞林』『大辞泉』のうち、アクセントの情報が示されているのは『大辞林』のみです。もし『大渡海』にもアクセントが掲載されるなら、大きな売りになるでしょう。
原稿の本文は、実在する辞書の語釈のパッチワークになっています。当ブログでちょうど「右」の語釈を比較している最中で、その先取りといった感じにもなってしまいますが、それぞれどの辞書にある表現か見てみます。
まず、『大渡海』草稿の「右」①です。
①横に広がる、または並ぶもののうち、一方の側を指す語。北を向いたとき東に当たる側。縦書きの本の偶数ページに当たる側。「明」の「月」のある側。「リ」の字の線の長い側。「―に曲がる・―のほうへ進む」
②「右①」に当たる手。右手。「―投げ」
③前に述べたこと。「―御礼まで」
1文目と5文目(赤色)は『三省堂国語辞典』にある表現です。
横に〈広がる/ならぶ〉もののうち、一方のがわをさすことば。「一」の字では、書きおわりのほう。「リ」の字では、線の長いほう。
――『三省堂国語辞典』第7版(2014)
2文目(青色)のように方角を用いるのは『言海』以来多くの辞書が採用している伝統的な語釈です。現行の中型辞書3冊も、向いている方角は異なるものの、方角で「右」を語釈しています。
3文目(黄色)は『岩波国語辞典』の発明した語釈として有名です。
相対的な位置の一つ。東を向いた時、南の方、また、この辞典を開いて読む時、偶数ページのある側を言う。
――『岩波国語辞典』第7版新版(2011)
4文目(緑色)は『新明解国語辞典』にあるもの。自分の書名にある「明」を使っているのがチャーミングです。
アナログ時計の文字盤に向かった時に、一時から五時までの表示のある側。〔「明」という漢字の「月」が書かれている側と一致〕
――『新明解国語辞典』第7版(2011)
ちなみに、複数の用例を掲出するとき、同じ括弧の中に列挙して中黒で区分けするのは、『三省堂国語辞典』『新明解国語辞典』が採っている方式です。
②は、語義の区分を設けていない辞書もあります。よく似ているのは『新明解国語辞典』で、「右投げ」の例があります。
「右(一)」の側の手。右手。〔多くの人が、はし・金づち・ペンを持つ方〕「―投げ」
――『新明解国語辞典』第7版(2011)
③の意味はたいがいの辞書に載っています。表現が特に似ているのは『三省堂国語辞典』ですかね。
前に述べた〈こと/とおり〉。「―のとおり・―御礼まで・―代表」
――『三省堂国語辞典』第7版(2014)
さて、アニメ『舟を編む』の舞台はどうやら2000年らしいのですが、ここで気になることがあります。『三省堂国語辞典』が「右」を先に引いたように語釈したのは、2014年発行の第7版からのことなのです。前の版ではこうなっています。
この本を開いたとき、偶数ページのある・ほう(がわ)。
――『三省堂国語辞典』第6版(2008)
『岩波国語辞典』リスペクトの語釈です。
ということは、アニメ『舟を編む』の世界では、「横に広がる、または並ぶもののうち、一方の側を指す」「『リ』の字の線の長い側」という説明は、玄武書房辞書編集部の発案だったということに! 「右」史に残る大事件です。『大渡海』の先見の明、恐れ入ります。
西岡の新語チェック
西岡が仕事の愚痴を述べる場面です。
しっかし、辞書づくりってのは普通じゃないねえ。労力も時間も果てしないし、何より地味だしな。絶対ドMがやる仕事だ、ありゃ。
辞書づくりがドMの仕事かどうかはさておき……2000年を生きている西岡が「ドM」なる言葉を使うでしょうか。
『現代用語の基礎知識』では、2009年版に「どエム」が採り上げられています。一部を引用します。
「ど」は、「どでかい」などで使われる強調の接頭語。エムはmaso(マゾ)の頭文字である「M」。直訳すると被虐性欲が強い人、だが、近年それが転じて「人に命じられたことを好んでするタイプ」といった意味で繁用されるようになった。
2005年から翌年にかけて読者から募集した新語を収録した『みんなで国語辞典!』*2には、「ドN」という「ド・ノーマルな人」という意味の語が載っています。投稿者は山梨県の高校2年生です。「ドM」「ドS」をもじったものでしょう。
「ドM」「ドS」は2000年代中頃には広く使われていたようです。これは個人的な感覚にも合致します。
ネット上には2002年付の例もあることをお教えいただきました。
2003年 https://t.co/ng2hmeuR35 https://t.co/mUl4RIlcrW
— Hiroshi Manabe (@takeda25) 2016年11月3日
2002年 https://t.co/OVUQJzcljs
ぼくの限界
「ド」のつかない「M」「S」ならば、昔から使われています。1998年の『性語辞典』*3には「エム」に「マゾヒズム。マゾ。また、その人」の意味が掲げられています。『性的なことば』*4によれば、マゾヒズム・サディズムの略称としての「M」「S」は『奇譚クラブ』1952年8月号の「MとS」という記事が古いそうです。
1988年の『辞書にないことばの辞典』*5には、「M子」すなわち「女のマゾヒスト」などという語も載っています。
もっとも、古い「M」「S」はもっぱらSMプレイの用語であり、『現代用語の基礎知識』の書くように、性的意識がわりあい希薄になっていくのは2000年代になってからという印象です。
2000年頃に「ドM」があってもおかしくはないと思いますが、それにしても西岡の新語に対する感度は超人的に敏感だと言えるでしょう。
辞書づくりのうた
何だこれは……
20回くらい聞いていますが全然中毒じゃありません。
ところで、「辞書」のローマ字表記で"Jisho"と"Jisyo"が混在しているのが気になります。前者はヘボン式、後者は訓令式と呼ばれるもので、どちらが間違いというわけではありませんが、特に意図がなければ統一したほうがいいのではないかと思います。エンドクレジットの曲名表示では"Jisho"でした。
"ijyo"はさすがにちょっといただけません……。
辞書を鑑賞する
タイアップ企画でオープニングに登場したのは三省堂の『新明解国語辞典』第7版(2011年)の並版でした。
馬締が机に積んでいたのは、これまで何度も登場した『広辞苑』第5版(1998年)と、第1話で荒木が言及していた『岩波国語辞典』の第5版(1994年)、本編には初登場となる『新明解国語辞典』第5版(1998年)と『現代国語例解辞典』です。『現代国語例解辞典』は初版(1985年)も第2版(1993年)も本体の装丁がよく似ているので判別が困難ですが、おそらく新しい第2版のほうでしょう。
『現代国語例解辞典』は私の一押しの辞書でありまして、馬締がこの辞書を使っているというだけで感激であります。
佐々木さんが持っているのは『三省堂国語辞典』第4版(1992年)。先週も西岡が手にしていましたね。
まとめ
西岡は凄い。
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