四次元ことばブログ

辞書と言葉に関するあれこれを、思いつくままに書き記しておくことにしました。

アニメ『舟を編む』試写会トークショーのレビュー、という名の辞書入門

去る10月1日、一般財団法人出版文化産業振興財団(JPIC)主催のイベント「『舟を編む』先行試写会&トークショー」に足を運んでまいりました。10月13日から放送が開始されるアニメ『舟を編む』1・2話の試写の後、原作者である三浦しをん先生、小説の挿絵を描かれ、また今月からコミック誌ITAN』でコミカライズ版を連載される雲田はるこ先生、『学校では教えてくれない!国語辞典の遊び方』の著者で、辞書コレクターとしても名高いサンキュータツオ氏の3名によるトークショーが行われました。

 

f:id:fngsw:20161006230320j:plain

 

アニメの出来は、わりとよかったとだけ言っておきましょう。1話にはドンと肺腑を衝かれたニクい演出もあって、この場面だけでも今すぐに見返したいという思いに取り憑かれています。詳しい感想や解説は本放送のときに譲ります。

  

トークショーを勝手に解説

筋金入りの辞書愛好家でいらっしゃるタツオ氏と三浦先生、漫画版執筆のため辞書の世界に踏み入ろうとしている雲田先生のトークは非常に濃いものでした。辞書好きの私は終始膝を打ったり時には首をかしげたりしつつ鼎談を拝聴しておりましたが、会場に来集したアニメファンには話の全容が伝わっていたのか、不安です。

 

ここで誠に余計なお世話ではございますが、お話の内容を勝手に補足させていただきます。

 

タツオ氏「『大渡海』の編集方針が、『簡潔かつ明瞭』だというのがポイント。『三省堂国語辞典』に近い方針を掲げている」

 

作中、国語学者である松本先生が、新しい辞書『大渡海』の編集方針を述べるシーンがあります。その方針は、「簡潔」かつ「明瞭」であることでした。

 

このような方針をとる実在の辞書として名高いのが、『三省堂国語辞典』(以下、三国)です。三国は初版(1960年)のあとがきでこのように述べています。

 

解説の基本方針の第一は、そのことばの概念が成立するために必要な条件を分析し、得た結果を簡潔で美しい日本語に表現し、一読してことばのイメージがまざまざと思い浮かぶようにくふうすることであった。

 

この方針は、前身である『明解国語辞典』(以下、明国)の方針を継承したものです。明国も三国も、編纂に責任を負ったのは見坊豪紀という一人の人物で、近代国語辞書史を語る上で避けては通れないお方です。『舟を編む』で描かれた「用例採集」の第一人者でもあり、松本先生のモデルの一人になっていると思われます。

 

明国改訂版(1952年)のあとがきにはこうあります。

 

旧版以来、語釈は平明な口語で行なってきたが、新版においては神経質と思われる程度にまで此の点に留意した。

 

この方針は、語釈が紙面では二行に収まるとされることから「二行主義」と呼ばれました。

 

三浦先生「電子辞書は使ったことがない」「紙の辞書は見やすく、引きやすい」

 

驚きました。下のエントリでも書きましたが、原作の『舟を編む』にはデジタル辞書の話が全く描かれません。これには、先生のご経験も反映されていたのかもしれません。

 

fngsw.hatenablog.com

 

「紙の辞書が見やすい」というのは、一覧性の高さについてのお話でした。引きたい言葉だけでなく、その前後も目に飛び込んでくるのは、確かに紙辞書の大きな特徴、魅力の一つです。私もよく、目的の語と関係ない部分で新発見をして、付箋を貼り付けるということをやります。

 

個人的には、デジタルの辞書でも、好みに応じて紙面風の表示ができるようにしたものがあったらよいと思います。デジタル辞書の一覧性の悪さはしばしば問題視されることですので、これを克服する要望やアイデアが無いはずがありませんから、実現には何か壁があるのかもしれません。

 

タツオ氏「アニメに『新明解国語辞典』の4版が映っていた。何刷か教えてくれ!」

 

新明解国語辞典』(以下、新明国)の4版は、刷の若いものに過激な語釈が多いとされています(有名ないくつかの語釈については、確かにその通りです)。そのため、辞書ファンは、新明国4版とくればまずその刷を確認したくなるものなのです。

 

タツオ氏は「動物園」の語釈が書き換えられていることに言及されていました。4版初刷の「動物園」の語釈はこうです。

 

生態を公衆に見せ、かたわら保護を加えるためと称し、捕らえて来た多くの鳥獣・魚虫などに対し、狭い空間での生活を余儀無くし、飼い殺しにする、人間中心の施設。

 

「飼い殺し」とは酷い言い様ですね。これが、後の刷では若干穏当な表現になっています。

 

捕らえて来た動物を、人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し、動く標本として都人士に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設。*1

 

「飼い殺し」版の語釈は各所で取り上げられ物議を醸しました。日本動物園水族館協会顧問(当時)の正田陽一は、

 

 悪意に満ちた文章であり,動物園に対する偏見としかいいようが無い。
 確かに,残念ながら「こう評されても仕方がない」といわざるを得ない動物園も無い訳では無い。しかし,現在の世界先進諸国(勿論日本も含めて)の動物園が野生動物保護に対して払っている努力は大きなものがあり,その成果にも見るべきものがある。決して「口先だけの保護」といったようなものでは無い。*2

 

と批判した上で、動物園が種の保存に果たしてきた役割を論じています。もっとも、この小論が発表された1993年当時、新明国は増刷分ですでに語釈を改めていました*3

 

雲田先生「『日本国語大辞典』の背の文字は手で書きました」
三浦先生「狂気のお人だわ」

 

漫画に『日本国語大辞典』の初版が登場するそうですが、雲田先生は、その背にある筆文字の書名をご自身でレタリングされ、忠実に再現なさったということです。

 

写真でご覧に入れましょう。

 

f:id:fngsw:20161006231305j:plain

 

ITAN』の発売は10月7日(金)。見比べるのが楽しみです。ちなみに、三浦しをん先生は『日本国語大辞典』の縮刷版をお持ちだそうです。「持ち上げようとすると腕がポキっとなる」とか。でかくて重いんですよね。

 

雲田先生「三省堂岩波書店へ取材に行きました。三省堂の用例カードは、大事そうに置いてありました。岩波書店でも用例カードを見せていただきました」

 

用例カードといえば、三省堂が保管している、見坊豪紀のものが有名です。見坊は新聞や雑誌などから言葉の実例を採集し続け、生涯で140万枚を超えるカードを作成しました。気の遠くなるような量です。

 

岩波書店でも似たようなカードが使われていたそうです。編集者が記録したものだとは思いますが、詳しい話はほとんど聞いたことがありません。どのような形式のものが、どれくらいの量あるのか、非常に気になるところです。

 

雲田先生「『岩波国語辞典』初版の画像が、どうしてもネットで見つからなかった」

 

作画に『岩波国語辞典』初版の書影が必要だったそうですが、ネットの大海にもその画像は見当たらないようです。これは不便ですね。ここに置いておきます。

f:id:fngsw:20161006231356j:plain

 

タツオ氏「『三省堂国語辞典』の見坊豪紀先生と、『新明解国語辞典』の山田忠雄先生は、同じ金田一京助ゼミだった」

 

誤りです。正しくは橋本進吉の演習です*4

 

見坊豪紀は、金田一京助アイヌ語の授業を受けていました*5。ごっちゃになってしまったのでしょう。

 

タツオ氏「雲田先生。『りんご』をどう説明しますか?」
雲田先生「えー、赤くて、おいしい……」
タツオ氏「おいしい、ですか。『新明解』と相性がいいですね」
三浦先生「『新明解』は食べ物に『美味』とか書くんですよね」

 

認識不足です。新明国が食べ物の語釈で「おいしい」などと書くことがあるのは事実ですが、他の辞書も少なからず食べ物を「おいしい」「美味」などと説明しています。

 

新明国は食べ物に「おいしい」と書いていておかしい、という言説は、赤瀬川原平の『新解さんの謎』が発端のようです。その後、新明国は味にうるさい面白い辞書である、という評価が辞書ファンの間でも定着していました。

 

しかし、実際には、食べ物の味を云々している辞書は新明国に限りません。複数の辞書の食べ物の項目をちょっと引き比べてみればすぐにわかることです。

 

「おいしい」と書くのは辞書なのに変だ、という認識も問題です。この認識の前提には「辞書は客観中立であるべきだ」という意識が働いているのだと思いますが、言葉の辞書は、科学的に裏付けされた永久不変の事実のみを書くものではなく、言葉の文化的側面にまで踏み込んだ記述も許される(むしろ記述すべきである)のです。

 

このこと自体はタツオ氏自身もよく認識しており、

 

小説を読んでいて「今日は鯛だ」とか「わー、あわびだー」と登場人物がいった場合、そこに心躍る気持ちや、ふだんなかなか食べられないものが出てきてうれしいとかいったニュアンスがあることを、この辞典はくみとろうとしているのだ。*6

 

と述べています。『岩波国語辞典』の「鴨」の項にも「肉は美味」とあることを指摘したのはよかったのですが、

 

岩波国語にしては異例の主観的記述「肉は美味」の4文字に、新明解の山田イズムへの敬意、という行間がある。*7

 

としたのはあまりにおざなりでしたね。なぜって、『岩波国語辞典』は、新明国が出る10年も前の初版(1963年)から、鴨の「肉は美味」と書いているのです。思い込みのおそろしさを感じます。

 

日本で最初の近代的国語辞書とされる『言海』(1889~91年)でも「鴨」を引いてみましょうか。

 

かも(名)[鴨]鳥ノ名、雁ニ後レテ来リ、雁ニ後レテ帰ル、雄ヲあをくびトイフ、〔中略〕脂多ク、味最モ美ナリ。野鴨

 

明治期の辞書も、鴨の味を褒めているのです。食べ物に美味と書くのが新明国の個性だとはとうてい言えないことがおわかりになると思います。

 

辞書ごとの「美味」の含有率などの分析は西練馬氏の名著『グルメな辞書』に詳報があります。一読をお勧めします。

COMITIA 116 | Lexicography101

 

タツオ氏「『明鏡国語辞典』は、料理の作り方まで書いてある。たとえば、『そば』とか」

 

初耳でした。引いてみますと、

 

そば粉を水でこねて薄くのばし、細く切った食品。そば切り。卵・ヤマノイモ・小麦粉などをつなぎに加えることもある。ゆでてつけ汁につけたり、汁をかけたりして食べる。もりそば・かけそば・天ぷらそばなど、さまざまな料理がある。
――『明鏡国語辞典』第2版

 

とあります。なるほど、確かに作り方が書いてあるように読めます。他の辞書は違うということでしょうか。

 

ソバ②〔植物としてのそば。筆者注〕から取った粉を水でこねて細長く切った食品。ゆでて、つゆをかけたり、つゆにひたしたりして食べる。
――『岩波国語辞典』第7版新版

 

ソバの実の中に入っている白い粒を粉にしたものを水でこねて延ばし、細長く切った食品。ゆでて食べる。
――『新明解国語辞典』第7版

 

そば粉を水でこねて薄くのばし、細長く切った食品。ゆでて食べる。そばきり。
――『現代国語例解辞典』第4版

 

ううむ、どれも似たり寄ったりで、作り方を書いていると言えるのではないでしょうか。『現代国語例解辞典』の一文目なぞ、『明鏡国語辞典』とほぼ同じです。『明鏡国語辞典』が料理の作り方を書きがちだという事実がもしあったとしても(ざっと見たところそんなことはないように思えますが)、少なくとも「そば」は好例ではないでしょう。

 

雲田先生「家には『新明解国語辞典』と『広辞苑』があります。ネームはだいたい図書館でやります。資料が揃っているので」
タツオ氏・三浦先生「新明解と広辞苑か~!」

 

新明国と広辞苑は、誤解をおそれずに皮肉を込めすぎた言い方をすると「二大・世間の評判と内実が乖離している辞書」みたいな印象があります。タツオ氏と三浦先生のため息まじりの叫びも頷けます。それに、ともに変に頭が固いところがある(主だったところでいえば、新明国は語義を不必要に狭く捉えがちだったり、広辞苑は徹底した歴史主義で、語釈を古い意味から順に並べたりすることなど)辞書なので、この2冊だけを使うと、日本語に対して中立的な視座に立つことが難しくなるのではないかという気も……。

 

これらの辞書やその方針が悪いと言っているわけじゃありません。偏らないかというのが心配なわけです。しかしその点、雲田先生は図書館で複数の辞書をご覧になっているようですから、問題ないでしょう。

 

辞書は特徴の異なるものを複数使うことが大事です。

 

三浦先生「辞書は、頼りになるけど、隙もある。対話ができる感じが魅力」

 

全くその通りだと思います。辞書は全知全能の神でも、絶対的ルールブックでもなく、言葉について質問できる一番身近な相談相手なのです。それはちょっと違うんじゃない、と思うような答えを返してくることもありますが、そういう場合は、反論を試みていいのです。言い返しても、怒ったりはしません(新明国あたりは怒りそうですが)。

 

辞書と対話、しましょう。

 

最後に

図らずも、辞書フリーク入門といった雰囲気の記事になりました。それだけ充実したトークショーであったということです。

 

トークショー前に上映されたアニメ『舟を編む』について、登壇者のみなさんが第一に述べた感想は、「背景が気になってストーリーが頭に入ってこない!」というものでした。これは、辞書おたく的最大級の褒め言葉でしょう。ディテールがよく描かれているため、見どころが山ほどあるのです。

 

辞書おたくになれば何倍も楽しめるアニメ『舟を編む』は10月13日放送開始だよ! みんなも辞書おたくになろう!

*1:33刷。そのへんに転がってて適当に手に取ったやつが33刷だっただけで、33刷からこの語釈に変わったというわけではありません

*2:正田陽一(1993)「動物遺伝資源の保存と動物園の役割(1)」『畜産の研究』47巻2号,養賢堂 p.272

*3:ネット上の記事には、この論文がもとで新明国が語釈を修正したとしているものがありますが、誤りです

*4:「明解國語辞典」について http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/dicts/ja/meik_ja/subPage2.html 2016年10月6日参照ほか

*5:同前

*6:サンキュータツオ(2015)「サンキュータツオの このコトバ、国語辞典に聞いてみよっ 第2回」『栄養と料理』81巻1号 p.101

*7:同前